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すすきのの歴史的背景

すすきのの歴史的背景



札幌市中央区の歓楽街すすきの(薄野、ススキノとも表記される。)は、明治4年(1871)北海道開拓使が現在の薄野の2丁(約218m)四 方の区画に公認された遊郭を設け「薄野遊郭」と命名したことから周辺の歓楽街は「すすきの」と呼ばれるようになった。

明治2年開拓使庁が設置され札幌本府としての街づくりをスタートする。明治4年には市街地の区画が決められ、その範囲は開拓使庁 舎を中心に1里四方(1里=36丁=12,960尺=3.927km)を市街地とし、碁盤の目に1丁=60間=360尺(約109m)四方を、京都にならって条丁 目に区画した。本通は幅11間(約20 m)、1丁区画を南北に2分して中通は幅6間(約11m)を設けて、各6戸合計12 戸を収容できるように した。
「大友堀」(現在の創成川)を基準に西側の区画整理を行い、中央に幅58間(約105m)の広街(現在の大通公園)を設けて防火帯とした。

明治6年10月総工費3万2千円余りをかけ、屋上八角ドームの尖端までの高さが14間1尺の洋風三層楼の開拓使本庁が落成。この庁 舎を中央にして、東は現在の西4丁目駅前通、西は、西8丁目通、南は、現在の北1条通、北は、現在の北6条通までの約5町四方を 開拓使本庁の敷地とした。
明治5年(1872)に丸井今井が開業したことに端を発し、現在の南1条から南3条にかけて、210戸の町並みが形成され、一大商業地に 成長した。


             開拓使本庁舎                                    南1条通り

特に南1条通には旅人宿が立ち並びこれらの宿は飯盛女(私娼)を抱えていたため取締りも困難になり、開拓に必要な労働力の足止め 策として、市内周辺に点在していた女郎屋 7 軒を、現在の南4条〜5条、西3丁目〜4丁目に集め、官許の遊郭を設けたのが花街すす きのの始めである。
遊郭地には、周囲に高さ 4 尺の土塁(堀を掘った土で築かれた土堤)を巡らせ明治5年の夏に完成させた。土塁内側の南四条通は 「藤井町」、南五条通は「中之町」、南六条通は「柳川町」と名付けられた。
正面に大門(おおもん)を設置したこの遊郭を、東京の「吉原遊郭」の語源、葦(よし)の生い茂る野原にちなみ薄(すすき)の生い茂る 野原に築かれたことから岩村通俊が「薄野遊郭」と名付けたとされる。
また、工事監事の薄井竜之の一字を取って「薄野遊郭」と名付けたと言う説もある。

薄井竜之(1829−1916)幕末―明治時代の尊攘運動家。文政12年生まれ。
開拓使監事をへて明治11年東京裁判所判事、秋田地方裁判所長を務めた。大正5年11月29日死去。88歳。長野県出身。

明治5年(1872)、岩村通俊は政府高官を接待するために建坪 193 坪の「東京楼」(南 6 西3)を建て、東京品川から遊女を呼び優雅な 花魁道中を繰り広げた。
花魁道中は花魁が振袖新造と呼ばれる若い花魁候補や禿(かむろ)とよばれる童女を従えて芸妓置屋から待合茶屋まで練り歩くこと で、今日、すすきの祭りの催し物として毎年再現されている。待合と料亭の違いは、待合は板場を持たず料理は仕出し屋などから取り 寄せ、料亭は割烹料理を出すことである。待合は席料を取るほか、取り寄せた料理に手数料を上乗せ、これが主な収入となる。また、 待合では寝具を備えた部屋が用意されており、ここで遊女と一夜を過ごす客も多かった。
東京楼は運営こそ民間人に任せたが開業に必要な資金はすべて官費で賄われ、榎本武揚、黒田清隆ら多くの政府高官が利用した。 同じ待合でも、政治家も出入りするような格式の高い店もあれば、小待合、安待合と呼ばれる店もあり、格式ある待合・料亭は「一見さ んお断り」が当然であった。
明治6年2月当時の薄野の娼楼は20数戸に達し、娼妓数160余名とされる。



「札幌繁昌記」(明治24年発行、木村曲水著)の「薄野遊郭の魂胆」の記述によれば、「東男の職人ども、多く来ませしが、人家もなくま して女人もあらざれば、殊更に冬の夜の肌寒く1人寝の夢冷やかく、仕事も手につかず、一夜ごとに逃げだすままならぬ現状に、当時 の判官がつくづく思案、依って東京品川の遊女を官で保護して移せしに、思いのほか大当たり、金もどしどし巻き上げれば、いずれも 借金を質に置くという有様となり、逃げるにも逃げられず、ついに落ち着いて尻温め、住めば都と安堵する。」(一部現代文に編集)とあ る。
開拓使は明治10年に一定の区域外には芸妓置屋、待合、料亭の営業を許可しない三業規則を定め、正式に「札幌遊郭」を発足させ た。三業とは貸座敷業、芸妓業、娼妓業であり、娼妓は、独立した営業者として貸座敷業者から部屋を借りて営むことになったが、遊 女屋が貸座敷に呼び名が変更されたくらいで、実質は変わりなかった。
「札幌繁昌記」によると「一等貸座敷は北海、昇月、花月、昇星、長谷川の5楼にして、お極り大枚1円50銭、お開となり菓子代などゆす りとられ、結局一夜の春夢、2円消えてなくなり、これら大店と呼べども女菩薩の器量は東京吉原小店のそれよりも野卑にて下女の如 し、されど職を占むるものは往々尤物ならん」とある。」と述べられている。
娼妓は東北出身者が多く、彼女達は年季奉公という形で働かされていたが、一定の年限を働いても郷里に帰ることはほとんど無かっ た。年季を明ける率は極度に低く、大半の遊女が生涯を遊廓で終えている。
海運が輸送の中心だった明治時代、客は「入船」と呼ばれ、遊女が客を受けることを「水揚げ」といった。"水揚げ量"の多い遊女が人 気の女性だったということになる。
当時の遊女たちを偲ばせるものとして、豊川稲荷(南7条西4丁目)の境内に、高砂楼や昇月楼などのほか芸妓の名前が刻まれた玉垣 や門柱が残されている。
境内に建つ「薄野娼妓並水子哀悼碑」は、開拓を支えた娼妓たちを供養し、その陰の水子の霊を慰めるため昭和51年に当時の堂垣 内尚弘知事が碑文を認め薄野花街哀悼碑建立期成会が建立したものである。毎年五月二十四日に法要が営まれ歴史の重みを現在 に伝えている。


            西花楼                                   高砂楼

一般に知られている札幌の「おいらん渕」の伝説は、東京の吉原から連れて来られた花魁が、自分が置かれた環境に絶望してこの淵 へ身投げしたという話である。
豊川稲荷の住職牧野拓道が書いた『すすきの今昔』に「おいらん渕」の由来が紹介されている。
話は、南2条西3丁目に、若月為吉という人の洋服店があった。洋物布地や既製服などを仕入れるために上京した為吉は、吉原遊び を覚えて、とうとう「花魁」を身請けして、札幌へ連れてきてしまった。ところが、札幌で暮らして3ヶ月が経った頃、東京へ帰ると言いだし た。
彼女の元には密かに男性からの手紙が届いていて、激昂した為吉は、座敷牢を作って彼女を監禁した。
ある夜、彼女は牢を抜け出し、店の若者達が市内を探し回ったが、結局見つけることはできなかった。それから数日後に豊平川の上 流で女性の溺死体が発見され、死体の身元は牢を抜け出した彼女と確認された。
これが明治28年秋のことで、この事件の後、人々はこの女性の身投げしたとされる場所を「おいらん渕」と呼ぶようになったという。
こうした伝説が地名になったことから、「さっぽろふるさと・文化百選」に選定されている。

割烹の話
割烹(かっぽう)とは、調理された料理のことで、日本料理を指す。割烹の割は、食品材料を下ごしらえまたは食べ易くするだけの処理 をして、生のまま食べられる料理をいう。烹は加熱して味付けした料理をいう。主に、会席料理、懐石料理、精進料理といった料理に対 する呼称として使われる。
料亭は、日本料理を出す高級飲食店で、料理・器・座敷・床の間・美術品・調度品・芸妓・邦楽など正統派の日本文化を堪能できる。
一般に、専任の板前を抱え、座敷があり芸妓をあげるような料理屋のことを指すことが多いが、芸妓衆のもてなしを主として、料理は仕 出しでまかなう貸座敷(いわゆる待合)も料亭と呼ばれた。
「札幌繁昌記」の中で、著者の木村曲水は、会席料理は東京庵を親玉とす、料理美にして蕎麦を兼ねぬ、座敷間数十余、公然の集 会、内証の談判ことごとく都合良ければ、粋士遊郎あとを絶たず、弦歌踏舞の声、黄昏の鐘とともに湧き、ひとたび手を叩けば銚子と 料理と来たり、二度にして唄ひ女現はる、内抱八人あり、狭斜の美形尤物なり。と記している。
東京庵は東京から来た後藤彦江門が開拓使御用料理屋を命じられ脇本陣の近くで明治五年に蕎麦屋を開業したが、その後、南二条 西五丁目に本格的な料亭を建設し「東京庵」を開いている。当時の蕎麦屋は、酒や料理を出し芸妓もあげるのが通常であった。これに 次ぐのは南一条西三丁目の弥生楼と大通り四丁目の東寿司である。弥生楼は旅人宿を本業としたが、裏口門があり、内芸妓五人を 抱え、東寿司は五人の白拍子(歌舞を専業とする遊女)を用意周到に長屋に控えていた。
その他、開進楼(南四条西三丁目)、大中(薄野遊郭内)、桃李亭、東海楼(大通西三丁目)等があり、旅館は道庁前の山形屋、旭館、 北七条の京華楼、南一条の北京楼(ほっきんろう)等があった。
数ある料亭の中でも繁栄を極めたのは、「いく代」である。200畳敷きという大広間を設け、時の宰相・伊藤博文をはじめ日本の政財界 のトップクラスがいく代を利用した。
いく代の初代女将の斉藤いくは、明治元年3月新潟県の松村町に生まれた。父は、函館で木材商をしていたが、函館大火で財産を失 い、二十歳のいくは芸者として札幌に移る。その後、明治24年に、偕楽園(北7西7)の池畔にあった建物を賃借して偕楽亭を始め、同 28年に板前の小林喜三郎と結婚、翌年、現在の南3西4に広壮な料亭「いく代」を開業した。


             いく代                                         山形屋

明治42年発行「最近之札幌」には、いく代の小林喜三郎が料理店業で税額1位で364,500円、2位は東京庵の後藤_太郎の314,750円と され、「いく代は東北随一の旗亭にして、其構造の宏大なる、数寄を凝せる客室の美麗なる浅酌低唱の小宴より大集会の宴会まで客 の嗜好に適せざる、殊に故伊藤公爵の旅館となりしに因み幌都にステッキを曳く紳士は必ず清遊を試みざることなし、清華亭は其支店 なり」と記されている。

主人の小林喜三郎は稽古に励んでいる芸妓の発表会の場を作る相談を九島伊太郎に持ちかけ九島は明治43年に遊楽館を開設して いる。
九島伊太郎は秋田から明治33年に来札、薪炭業を営むかたわら、義太夫の師匠である森田ハツと結婚、弟子が多くなるにつれて発 表の場がほしくなったこと、また、義太夫を通して交友のあったいく代の小林喜三郎から『芸の発表の場をつくらないか』ともちかけられ たことなどが遊楽館を建設したきっかけとなった。


        いく代の芸妓発表会                                      遊楽館

「札樽便覧」(明治41年発行)の旗亭「幾代庵」では、「其名全道に響ける所以(ゆえん)のもの、盖し(けだし)女将の驍名斯界(きょうめ いしかい)に鳴り、建築構造の宏壮と仝家自ら経営する中見番に、嫋々艶麗(じょうじょうえんれい)の美妓に富むを以って故なりとす、 大集会の宴席に便し、清酌に適し訊く酢可き清雅の庭園、料理塩梅の美味通客豪遊の人の愛顧愈深き又宜なり。(南三条西四丁目 電話二番)」
中見番
明治36年旗亭幾代庵の新設したるものにして、美妓嫋態の多きを以て鳴る、籍を列するの美目十九名にして、所謂一流紳士間の眷 顧(けんこ)を受けて隆々たり。
小いく
幾代庵の愛娘にして、婀娜(あでやか)たる麗艶(れいえん)一朶江桃(ひとえだのもも)夕陽の蔭に匂ふが如く、天性怜悧(れいり)にし て才気座中を壓し、三絃妙を極め舞曲又巧みなり、紳士之を聘せざるなく、通客之を招かざるなし、と説明している。

斉藤いくは、函館の勝田楼(勝田鑛蔵の長女・コウは、ハム作りの職人カール・レーモンの妻) の島崎いと、小樽の海陽亭(魁陽亭→開 陽亭→海陽亭)の官松かう、とともに本道花柳界を代表する三人女将として有名になったが、大正2年病気のため引退、京都に移り大 正11年3月9日死去した。
料亭いく代は実妹の斉藤シゲが継いだ。夫の斉藤源蔵は、小金湯の別荘「松の湯」に居住していたが、昭和24年9月24日の大雨によ り小金湯温泉では、源蔵ら七名が豊平川の濁流にのまれ犠牲になった。
高度経済成長期は三代目女将斎藤トキが札幌の花柳界を支えた。時代とともに薄野から風姿が喪失するなか、昭和52年、中島(南13 条西1)に移転、新たに「割烹いく代」を開業したが、長く続かず、札幌随一といわれた名門いく代は四代目にして廃業した。





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