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中川町の沿革

誉(ほまれ)市街
入植者が増加したことで、それまで郡名だけで町村名がなかったこの地域に、明治39年(1906)中川郡中川村が誕生した。(現在 の音威子府村と中川町を包括)人口も明治40年に 553戸2,081人が、明治45年には 940戸 4,325人と急増し、誉市街の天塩川の ほとりでは3 軒の廻漕業者(岡田、松岡、誉平廻漕)が営業を始める。
明治39年3月に私立同志教育所(簡易教育所の前身)が開かれ、同40年には誉平郵便局、誉平巡査駐在所が設置される。誉市 街の高台には明治41年認可の信正寺(真宗大谷派)、大悟寺(曹洞宗)同42年認可の極楽寺(浄土真宗本願寺派)が並んで建 ち、明治43年には誉平神社(現中川神社)が建設されたほか天北基督教会(日本基督教団)が建てられた。
明治45年(1912)5月1日、中川村戸長役場が開設され、御料庁舎の隣に戸長役場が建築される。開設理由は下名寄村(美深)と 遠距離であり入植が進み一般の便利を図ることにあった。
初代戸長に藤惣治が就任し、 役場には事務を執る筆生2人が任用される。


                           誉平  大正12年(1923)



       誉市街 誉市街の様子           



天塩線の開通
開拓農家の商品作物は、菜種(なたね)、薄荷(はっか)が主で、これらの輸送は、天塩港を基地とする天塩川の舟運が唯一の手 段であったが、大正元年(1912)11月、国鉄天塩線(現在の宗谷本線)の名寄〜 音威子府間が開通し、中川村に咲来駅と音威子 府駅が設置された。音威子府駅周辺は天塩川水運と鉄道の結節点として、また以北の鉄道建設の拠点として急速に発展した。
音威子府駅にはオホーツク海側の本幌別(現・枝幸郡枝幸町歌登)からも澱粉が出荷され賑わいを見せる。澱粉は食料として珍重 されたが、換金作物としての価値は低かったが、大正3年(1914)第一次世界大戦が勃発すると、主要な澱粉供給国のオランダやド イツが生産を中止したため、参戦被災国への澱粉輸出が急拡大した。
大正5年(1916)中川村から常盤村が分村し役場が咲来市街に設けられる。(昭和38年常盤村から音威子府村に改称)また、この年 の10月に宗谷線が中頓別まで開通したのを機に、中川村のペンケナイの沢を経て敏音知に通じる「ピンネシリ街道」(延長約20km ) が開削され、澱粉は舟に替わり馬車で敏音知駅に出荷される。
戦争前は1袋45kgが4〜5円であった澱粉が、大正7〜8年には12〜15円のに値上りし、中川村は澱粉成金が続出し空前の好景気 をもたらした。しかし戦争終結とともに海外への輸出は激減、大正10年には1袋3円にまで大暴落したため、馬鈴薯に替わって、換 金作物として除虫菊や薄荷が農地を埋めていった。
大正11年(1922)、アベシナイ(現・安川三)、遠富内(現・大富)の官設駅逓所が廃止となる。11月天塩線の音威子府〜誉平間が開 業し、筬島駅、神路駅、佐久駅、誉平駅を新設する。 
大正12年、9月誉平小学校、役場庁舎が新市街に移転する。 11月誉平〜問寒別間が延伸開業し、宇戸内駅(現・歌内駅)、問寒 別駅を新設する。



                                                            大正14年完成の佐久橋



                    誉平市街地 (昭和9年)



  誉平駅前での補助牝牛の購買会(背後の建物は鉄道官舎)                澱粉工場の集荷

大正15年9月に天塩線が全線開通し、流通経済の発展とともに洋式農業の導入が進み大型農業の時代を迎える。それを可能にし たのは農耕馬によるプラウ耕という新しい技術の普及で広大な面積の耕作が可能となり、生産性が飛躍的に向上した。
遠富内や瀬尾から誉平市街に往来するために、渡船場が設けられていたが、昭和3年3月遠富内橋が完成。
昭和8年3月に瀬尾橋が完成したことで、明治44年以来の渡船場も廃止される。
昭和2年、第二期北海道拓殖計画による未開地への入植が行われ、誉平に18戸、111人が移住したのをはじめ昭和2年〜5 年の 間に中川には129 戸が移住し、農地開拓は一段と進展する。



  軒先まで雪で埋まった中川市街高砂町2丁目         天塩川の渡船場(対岸に誉平が見れる)

昭和15年「北海道庁旭川土木現業所誉平治水事業所」が設置され、天塩川の捷水路工事に着手、中市街の家屋14棟が新市街に 移転する。
天塩川の切り替え工事は、太平洋戦争によって順調に進まず、戦後の昭和22年に工事を再開し4年の歳月を経て昭和25年に新水 路が完成する。この工事により、誉平市街は旧市街の誉地区と分断されたことで、昭和21年、新水路に木造トラスの中川橋が架設 される。しかしこの橋は、昭和25年に融雪洪水で落橋、昭和27年に架け替えられたが翌年の7月洪水で再び流失した。
毎年のように繰り返された洪水氾濫がなくなるなど、捷水路による治水効果は大きいものがあったが、交通路の寸断は経済活動に 大きな支障となった。
緊急策として人が渡れる吊橋が架けられていたが、昭和32年9月ランガーアーチ橋の中川橋(延長153.5m)が完成するまで、大富 地区や誉地区の農産物は瀬尾橋を経由して誉平駅前まで運ばれた。
現在の中川橋は平成4年に市街地の下流側に架け替えられたものである。
また、瀬尾橋は老朽化のため撤去され昭和52年上流に「誉大橋」が架けられた。



            昭和8年完成の瀬尾橋(左の赤い屋根の建物は誉平水位観測所)





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