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清水家のはなし

祖父 清水常蔵が生まれた時代
清水常蔵は明治16年(1883)9月10日、富山県東砺波郡金屋岩黒村690番地において清水清太郎(安政3年(1856)5月3日生)の次男と
して生まれた。
(金屋岩黒村は明治22年4月市制・町村制施行により10村が合併して東砺波郡東山見村大字金屋岩黒村となる。
昭和27年町村合併法施行により東山見村、青島村、雄神村、種田村が合併し、庄川町が発足。
平成16年11月庄川町は新設砺波市と合併し、現在、富山県砺波市庄川町金屋)
常蔵が生まれた庄川町金屋は、江戸時代から明治期にかけて金屋岩黒村と呼ばれ、加賀金沢藩領に属し文禄3年(1594)に加賀藩主
の権中納言前田利家が庄川流木の集散地として材木囲場を設けた地である。
金屋は慶長16年(1611)前田利長により招かれた鋳物師が鋳物作業場(吹場)を設けたことに始まる。砺波郡には、「西部金屋」(砺波
市)、「山見金屋」(砺波市)、「本郷金屋」(小矢部市)、「高宮金屋」(福光町)が設けられ、鋳物師は町づくりに必要な鉄釘、金具類、
鍋・釜、鋤・鍬等の鉄鋳物を製作していた。
江戸中期以降になると、銅器鋳物の技術が導入され、仏具や香炉などの美術工芸品の製造のほか、梵鐘や灯篭等の大型鋳物の生
産を行い金屋は大いに繁栄した。ニシン漁の最盛期には、魚肥をつくるためのニシン釜や米・木綿・塩・味噌・鍋釜等の生活必需品が
千保川の水運を利用し河口まで運び伏木港から北前船で蝦夷地に届けられた。
延宝4年(1676) 金屋岩黒村は屋敷数66軒、元禄12年(1699)には112軒、明治5年には336軒の屋敷が立ち並び1,560人が暮していた。
町並みは、切妻造り平入、屋根は桟瓦葺き、下屋は板葺きを基本とし、出入口に格子戸や大戸を構え、開口部には千本格子(地元で
は「さまのこ」と言う)が設けられていた。



金屋は全国名水百選の「瓜破清水」が湧き出ることで知られる。名水あるところに銘酒ありといわれるように、 清水家(屋)は、清澄な庄
川の伏流水を「仕込み水」として、古くから造り酒屋を営んでおり、天明3年(1783)松尾天神社に奉納された交名(きょうみょう)額に、酒
造業者、清水屋徳兵衛、銘柄「音羽山」の名が記されている。
砺波郡の十村(とむら)は25万石を生産しており、年貢米は古くは庄川の本流であった千保川を使って「戸出御蔵」(9,344石貯蔵)まで運
ばれていた。しかし豊作が続いて米の値段が下がると、米を酒に加工しておけば良質な形での貯蔵となり、また江戸表へ輸送する際
にも米より便利であることから、酒造りが盛んに行われた。
酒造りは、当時の経済の根幹であった米を主原料としたため、江戸幕府が定めた「鑑札」(酒造株)に記された石高の酒造りが認めら
れ、酒1升は米2升3合分を基準に決められていた。



                  瓜破清水

江戸後期の清水徳右衛門(文政13年(1830)11月15日生)は、妻すて(金沢藩士 野村家の娘、天保4年(1833)2月2日生)との間に3男2
女を儲けたが、男子はいずれも夭逝したため、長女ちい(元冶2年(1865)9月10日生)の婿養子として川島家から清太郎(安政3年
(1857)5月3日生)を迎えている。
明治15年(1882)7月1日、徳右衛門が死去、手次寺の瑞泉寺(真宗大谷派井波別院)から法名「釋唯了」を授かる。
徳右衛門の満中隠法要を終えた明治15年8月26日、清太郎26歳で家督を相続する。
清太郎・ちい夫婦は、長男徳太郎(明治15年11月16日生)、次男常蔵(明治16年9月10日生)、長女はつい(明治19年12月8日生)、三
男夘太郎(明治25年2月9日生)、四男粂次郎(明治27年10月9日生)、五男芳太郎(明治36年4月2日生)、二女たつい(明治42年4月14
日生)を育てる。
砺波郡の酒造りは明治の中頃に最盛期を迎えたが、明治13年(1880年)に造石高1石(10斗=100升=180リットル)に対し2円とされてい
た酒造税が、明治29年には清酒7円、濁酒6円に改められたことで、造石高は次第に減少していく。
その後も、日清戦争後の軍備拡張への財政支出が増大し、間接税を中心に増税が行われ、酒税は明治29年〜34年までの5年間で3
回増税され、明治32年には酒税の国税に占める割合が35.5%となり、国税の税収第1位まで増額された。こうした度重なる増税の背景
には、酒類が多くの人にとって必需品であり、高くても売れること。日本酒が国外で飲まれることは無いので貿易関税摩擦の心配がな
いことなどがあげられる。
当時、日本酒は年に1度しか造れないので、予想外の税負担を強いられた酒蔵は経営困難に陥り廃業するものも続出した。
酒造株は、地域内での譲渡や貸借が許されたので、経営不振になったり、相続人がいなかったりした場合、近隣の有力酒蔵がそれら
の酒造株を買って、経営規模を拡大することができた。こうした酒蔵のなかに有名な「立山酒造」がある。立山酒造は、文政13年
(1830)井波村の新明屋仙助が酒造株を許可され、その後、明治3年(1870年)に中野村の四右衛門が受け継ぎ、明治39年に組織を近
代化して再発足し、今日では富山県を代表する銘酒としての座を揺るぎないものにしている。               





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