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清水家のはなし

常蔵の兄 清水徳太郎


               東京丸の内東山農事本社

北海道拓殖の進展とともに木材伐採も商品生産を目的として組織的に行われ始めた。
本道産木材の本格的利用はマッチ軸木原料としての白樺、鉄道枕木用材としてのミズナラなど広葉樹の特定樹種から開始された。
このマッチ軸木、枕木の生産は当初より外国市場向け、輸出用に開発されたものであったが、とくにミズナラを主体とした枕木用材など
は欧州市場にも販路は拡大し、本道の森林開発も急進展した。



長男の清水徳太郎(明治15年(1882)11月16日生)は、北海道の鉄道が北に向かって延びていく機運に先駆けて、三菱財閥の東山(と
うざん)農事(株)の下請負業者として、弟の条次郎、芳太郎と奉公人一家を伴い宗谷村(猿払村)鬼志別に移住し材木業をはじめる。
東山農事は農業、林業および牧畜を主要目的として東京丸の内に本社を置き、大正8年11月1日営業を開始し、猿払村一帯8,000町歩
を所有し浅茅野出張所が紙・パルプ用の原木伐採を行った。
東山農事の伐採跡地は、小作入植が開始され、大正10年〈1921年〉に入植者は140戸に達したが、寒冷で農業経営が成り立たず大半
は離農を余儀なくされた。
木材景気は大正の後期から冷え込み、大正15年には東山農事浅茅野出張所も廃止されたが、「清水材木店」の事業は順調であっ
た。
徳太郎のもとで暮らしていた父親の清太郎は、昭和6年3月13日74歳で死去する。
昭和13年に、鬼志別神社の村社指定を記念して徳太郎、条次郎、芳太郎の3人で狛犬を奉納している。この狛犬は御影石(花崗岩)で
できており、現在も身近な文化財として境内に保存されている。



満州事変を契機に戦時体制へ向って大きく歩み始めると、木材の増伐が行われ、陸軍の飛行場が猿払村の浅茅野と鬼志別に建設さ
れた。
主要滑走路1,200m×60mが板敷きで仕上げられ、完成には約3年の歳月を費やしたが、終戦を迎へ殆ど使用されないで役目を終え
た。
飛行場建設は1942年4月頃から着工、工事のために1,200人の朝鮮人が浅茅野で働いていた。昭和18年の夏、発疹チフスが大流行
し、労務者から多くの死者が出た。遺体は、猿払村の成田の沢の共同墓地に運ばれ、葬られたが、数は不明だという。飛行場は終戦
後に払い下げられ、現在は牧場になっている。
現在、猿払村一帯の山林は王子製紙の社有林であり、17,290haを所有し、民有林としては道北随一の広さを誇る。
平成10年7月から「王子の森 猿払」として1,400ha が一般に開放されている。

猿払村における本格的農業開発は、戦後の樺太、千島、満州からの引揚者たちの入植によって開始される。しかし、土地の条件も悪
く、農業経験の乏しさ、資金の少なさもあって、戦後入植者の生活は辛酸を極めた。
清水徳太郎は、猿払村農協の初代及び3代目の組合長を務めたが、自身の事業経営に追われながらの奉仕であり個人的な犠牲が大
きかったという。昭和51年10月26日清水徳太郎93歳の天寿を全うし死去。

猿払村では昭和29年(1954)を最後に、沿岸からニシンは姿を消してしまい、ホタテも乱獲がたたって、昭和33年には全面禁漁になっ
た。
昭和40年代には炭鉱も閉山、林業も衰退して、村は火の消えたように寂びれたが、昭和46年から10年計画でホタテの大規模放流事業
をスタートさせ、計画的な稚貝放流により驚異的なホタテ水揚を維持する漁場となった。
平成23年度には水揚げ日本一(47,331t)を誇るホタテの産地となり、かつてバラック住居の漁村が、今ではホタテ御殿と呼ばれる豪邸
が建ち並ぶ豊な村に変貌を遂げている。





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